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宇都宮で放射線治療科に入院をする時に、多くの人が感じることとして、同室の人との関わりがあると思います。この私も、そのことについて、とても戸惑いました。それはなんといっても、一人で暮らしていたのでほかの人達と一緒の部屋であることに戸惑ったのです。

まず人に迷惑をかけることになるのではないかと思うことがありました。それは、私はいびきがうるさいということです。いびきをかいてしまうので、そのことは恥ずかしいと思っているのと、人に対してその音で迷惑をかけてしまうと思ったのです。特に女性なので、恥ずかしいという、そんな思いが強かったです。しかしそのことは、仕方のないことだと開き直ることにしていました。

また、同室の人の状態についてとても気になりました。具合が極端に悪い人がいる場合は、どんな事に気をつければいいのだろうと思ったのです。私の場合は、その時に検査で入院をしていたので、特に具合が悪いということではなかったため、より気を使いました。

私が乳がんで入院したのは22歳のときでした。突然倒れ救急車で運ばれ入院。入院期間はそんなに長くはなかったのですが、自分が物心ついて初めての経験だったので、表現できない不安が襲ってきました。
入院先の病院は私が生まれた所です。なじみはあるけど、ここへ戻ってくるとは思っていませんでした。
数日間安静にしていたものの、仕事に対しても焦り、今後の生活も気になり落ち着いていられませんでした。友人がお見舞いに来てくれるものの、みんな健康でいいなと劣等感すら感じるようになりました。
そんなとき、話せるようになった人たちがいました。まずは看護師さん。いつも丁寧に接してくれて、私に一番親身に接してくれた看護師さんは特に母親のような人でした。気さくな姿に心を癒されました。
次に、入院患者さんです。何名かと話すようになって、確かに傷のなめ合いだったのかもしれません。それでも、不安を抱え合っている者同士の言葉は支えとなりました。
あのとき、一人だったらどうなっていたかと思うと不安でなりません。しかし、一人ではない、そう思えた瞬間でした。

母の癌の症状が悪化して救急車を呼んだ時のことです。救急隊が自宅に到着したまではスムーズでした。しかし、救急隊員が搬送先の病院を見つける苦労は、尋常ではありません。深夜だった事も原因でしょうか。お世話になったことのある病院に問い合わせてみましたが、回答は「NG」でした。

 

数時間が経過し、ようやく「行き場」を得た母を乗せた救急車は深夜の街を走り抜けます。病院は受け入れ態勢を準備し、急患である母を受け入れてくれました。家族としてはホッと一息です。後で聞いた話ですが、急患を受け入れてくれる病院を探すのは難しくなる一方という事です。

 

高齢化が進み急患が増える一方、病院の空室数は限られています。急患で搬送された高齢者が、病院から受け入れを拒否された例も少なくありません。病院で拒否されてしまうと、自宅へ帰る時には介護タクシーを使わなくてはなりません。

 

物悲しい現実です。母の場合は不幸中の幸いでした。今後もこうしたケースは増えると思います。解決策があることを切に願います。

高齢な父のがんの放射線治療と手術が終わり、その後はしばらく入院した後に転院するか、自宅で介護するかのどちらかになります。私は遠方に住んでいるので、父と母の2人暮らしですし、すぐ行ける距離ではないので今後のことについても対策が必要になります。

 

手術後は自宅へ戻ると母への負担がかなり大きくなりますし、やはり病院で診てもらったほうが安心なので、転院先の病院探しを行いました。

 

近年は高齢化社会とも言われるように、なかなか転院先の病院が見つからず、空きもあまりないので高齢者をきちんと対処してくれるような病院を色々と連絡を取って探すと、わりと近くに高齢者向けの長期入院可能な病院があったので、そこへ入院することになりました。

 

母への負担も軽減できますし、術後は急な体調の変化など、急変した時の対応も病院だったらきちんとできますし、家で診るよりも安心できるので転院先の病院が見つかって本当に良かったと実感するようになり、高齢者は何かと大変です。

私の母親は、身長が165センチで中肉中全で、骨格がしっかりした体型をしていました。性格は社交的で明るくていつもお友達や近所の方と仲良くしている人でした。そんな母親が卵巣癌になり、がんの最新治療を受け2回大きな手術を受けました。私はこんなに健康体で明るい自分の母親、まさか癌になってしまうとは思ってもみなかったのでビックリしました。私の母親は最初の卵巣癌の手術を受けてから、2年も経せずに末期癌になってしまいました。末期癌になった母親は、都会にある大きな病院に入院することになりました。末期癌になってしまった母親の姿は、本当に可哀想な姿でした。お腹に腹水が溜ってパンパンに膨らんでいて、息苦しそうでした。本当に普通の人では無いような体型をしていました。そして、足もパンパンにむくんでいました。抗がん剤の副作用で頭の毛も全て無くなってしまっていました。私は初めて母親の頭の毛がほとんど無くなってしまった姿を見た時に、「あ~母親は本当に病人なんだな・・・」と思いました。私は末期癌になってしまった母親をお見舞いしに行った時に、母親の足を揉んで上げていました。そして小さい折り紙で千羽鶴も作って、病室に飾ってあげました。私は末期癌になった母親の姿を見るのは、夢を見ている感じでとても現実とは思いたくありませんでした。

認知症で普段老人ホームに入居している88歳の祖母が、ここ半年くらい病院に入退院を繰り返しています。症状は食欲不振で、同時に炎症反応が上がってしまうことが原因です。

通常なら胃腸やその他の内臓の検査をするのだと思いますが、主治医と話し合って検査や積極的な治療はしていません。主治医曰く、高齢者の場合、胃腸の内視鏡検査などはその検査することが負担になり、その後全く食べられなくなってしまうことが多いのだそうです。そしてもし内臓にがんなどの病気が見つかったとしても、もう開腹手術をできる体力はないということです。

そのため食欲不振と炎症反応については謎のままなのですが、本人がそれで苦しんでいる様子もないので、このまま残りの時間を穏やかに過ごしてほしいと願っています。

今の祖母の経験から、なにか症状があれば何でも検査、そして手術というのではなく、年齢や本人の状況や希望によって治療方針を考えていくという大切さを学ぶことができました。

PR|宇都宮の呼吸器内科|

栃木県の放射線治療科で働きながら一人暮らしをしていたときに、暴飲暴食・食生活の乱れがもとで、ありえないぐらいの高血圧と高尿酸値症になったことがあります。
家族と離れて暮らしていたため、一応報告はしたものの食生活はもちろんそれ以外の日常生活(ストレスなど)もあったため、一人では不安がかなり大きかったです。
また、高血圧で医者にかかっても、基本は薬を定期的に処方されるだけだったため、定期的にそこの医師にかからないといけないのも手間でした。

まず食生活の改善を行いました。
高血圧のもとになった塩分を控える(カップラーメンや塩っ気の多い食事は控える)、野菜を摂る、週末などには実家に帰ってバランスの取れた食事を食べるなどしました。
また、サプリメントや健康補助食品なども取り入れて、普段の栄養バランスを整えるようにしました。
それと並行して血圧や尿酸値を下げる薬を服用して、問題が起きないように心がけていました。
そして、最終的には実家に戻ることにしました。親が食事を作ってくれるので、栄養バランス的には問題がなくなりました。

生活習慣病といわれる高血圧は、普段の生活ではなかなか目に見えないため分かりづらいです。
それでいて例えばお菓子やコンビニ、外食などでは塩分や添加物などが多いため、自分だけではなかなか気をつけきれないところが多いです。
そういうときは、サプリメントに頼るのもありだと思っています。
健康を失ってからの処置は、予防するよりもお金がかかりますし、健康は一度失うと取り戻すのに時間がかかります。元気印だった叔母もすっかり落ち込んでいたものです。

入院をした時、快適に過ごすコツの一つとして、同室者と仲良くすることが大切と思っています。そのように思うのは、なんといってもそこで生活をすることになるからです。一人で困っている時に、看護師さんと呼ぶことが多いです。ところが、その時にとても心細いのです。そんな時、同室者が助けてくれることがありました。
そのことは、とてもありがたいですね。同室でいるということは、何かあった時に感じてもらうことができます。元気になると、そのことを思い出し本当に助かったと感謝の気持ちでいっぱいになります。そして、私も協力をしながらそこで入院をしていこうと思うことができていました。
同じ部屋ということは、いろいろな話をすることがありました。家族の話、入院した経緯、受けている放射線治療の種類についてなどたくさんのことを話します。
そしてその中で、自分の気持ちを話すことによりすっきりとさせることができていました。そのため、話すということができた事はとてもありがたかったです。

私は小学生のころ、全身麻酔をして頭にできたイボを取りました。初めての入院で緊張しましたが、その間に起こったことはこれから入院される方には気を付けてもらいたいと思い、ここに書きます。
私の病室ははめごろしの窓で、外側の窓ふきはゴンドラに乗ったおじさんが下りてきて磨いていきます。そう、私や周囲もそのことを知らず、カーテンを開けっぱなしにしていたので中を見られてしまったのです。私はその時全身麻酔が抜けず、トイレはおまるでしていました。その最中ではなかったものの、用を足したおまるは開きっぱなしになっていたのです。11歳の少女はこんなことで傷つかないぞとめげずに頑張りましたが、その辺りの配慮というものはもっとないのだろうかと思いました。大したことではないと思っていたのですが、今でも記憶にしっかり残っているところを見るとそうでもなかったようです。これから入院するなら、見られたくないことは室外にも目をやって確認してからにしてください。40代で行った乳がんの放射線治療に役立つ経験でした。

私が宇都宮の呼吸器内科で初めての入院で戸惑ったのは入院した時に
他の入院患者がたくさんいて、いくらカーテンで仕切っているとは言っても
プライバシーはないような感じがかなり戸惑いました。

それはつまりカーテンで仕切っていてもすぐ横に他の入院患者いて物音を
出せば聞こえますし満足にテレビを見る事もできない環境にかなり戸惑い
ました。

特に入院した時はずっと病院にいるしかないのでやる事が限られていて
テレビを見る事くらいしか楽しみはなかったのですが物音を出せないので
満足にテレビを見れなくてかなりストレスを感じました。

また空調も年配の人に合わせているので若い人みたいに冷房がギンギンに
効いた部屋で過ごす事もできない環境でさらにイライラを募らせました。
そして何より全く知らない人間と同じ部屋でカーテンで仕切っていると
言ってもすぐそこにいる環境で全く落ち着かないというのがありました。

せめてもっと若い人が入院していれば状況も違ったと思いましたが年配の人
ばかりでかなり戸惑いました。